【汝、隣人を愛せよ】










シャープペンを握り、とめどなくアルファベットを書き綴っていた手が止まる。

耳聡く音を拾った。
カン、カン、という足音を、である。
安アパートというのは何かと物音を拾いやすく、慣れてしまえばその音で人が何をしているのか分かる。

ロシウと同じく2階に住まう誰かが、帰宅したのだ。
鉄製のさびた階段を上る足音が、ずいぶん間を開けて響いている。
疲れているのだろうか。

登りきると、その足音は幾分控えめに歩を進め始めた。
ロシウの部屋の前を過ぎ、しばらくしてピタリと止まる。


(…シモン、さん…?)


だろうか、と。
勉強机に向かっていたロシウがふと自室の扉を振り返った。
足音が止まって、それ以上何も聞こえない。
扉が開く音も、閉じる音も。何も。

一度気になりだすと、どうにも勉強に意識を戻せなかった。
そんな自分が妙に気恥ずかしく、懸命に英単語を睨んだが。


「…っ、…ああーも…」


こめかみあたりを乱暴に掻いて、立ち上がる。キュイ、と座席が音を立てた。
ロシウは大股に玄関へ向かう。

時刻は23時を回っている。
もうすぐ日付も変わろうとしているのに、鉛のような足取りで帰宅して。
雨もやんでいないのに、一体どこに行っていたのだろう。
学校帰りに会ったシモンは、人に会うと言っていた。
物音ひとつしない隣に、今日は帰らないのかもしれないと思っていた。

(…スーツで、花束なんかを持って人に会いに行ったぐらいだし)

当然女性だろうと思わないはずがない。
そんな野暮な推測をするたび、自分には無関係だと首を振った。
彼は年上で、とっくに成人もしている。
一晩帰らないくらいで、何をこんなに気を揉む必要があるのかと自分でも馬鹿らしくなる。。

(あの人が悪い…)

心配させるような素振りばかりするから。
中途半端に隙を見せるから。





ロシウはそっとドアノブを回し、控えめに通路に顔をのぞかせた。

隣のドアの前には、やはりというか、案の定その部屋の主人がいた。
電灯はあるものの少し薄暗い。彼は傘だけを手にして棒のように突っ立っていた。


「シモ…」


どうかしたのかと声をかけようとして、ロシウは目を剥いた。
雨音に消されて気付くのが遅れたが、シモンの服の端からひたひたと雫がおちている。
よく見れば彼のスーツは肩からズボンの裾まで水をかぶったように濡れ、とろどころ乾いた部分がわずかに灰色を残すのみであった。

ロシウは足にサンダルをひっかけ、慌てて通路に飛び出す。


「シモンさんっ、一体、ど、…びしょ濡れじゃないですか!」


時間帯を考えて声を押さえてはいるが、慌ただしくばたばたと駆け寄る。
シモンはびくりと肩を震わせ、弾かれたように年下の隣人を振り返った。

勢いに圧されてじりと後ずさる彼を、しかしロシウはとっさに掴まえて引き戻した。
触れた手首は驚くほど熱を奪われており、唇も血色を失っている。
寝ぐせがちな髪が、今は水気を含んでしっとりと項垂れて、恐ろしく青白い顔をしていた。


言葉が出ず、唇を震わせるシモンに、むしろロシウの方が困惑した。
半日前に花屋の店先で微笑んでいた彼とは思えない。


バタ、と藍色の傘がシモンの手を滑り、コンクリートの床に落ちた。
その音にさえ互いに身を竦め、目に見えて動揺するほど。
何があったか聞くべきか、聞かざるべきか。ロシウは考えあぐねた。

結果、


「か……傘を、持っていたんでしょう?差さなかったんですか」


当たり障りのないよう、言葉を選んで尋ねる。
シモンはゆっくりとその問いをかみ砕き、とん、と自室のドアに寄りかかった。
しぼむように肩が落ちていく。比例して、視線も下向いていった。
彼の右手首を掴んだ左手は、離さずに答えを待った。熱を奪われそうなほど、冷たい。


「ああ、そうだな…うん、どこで…傘、閉じたんだっけ、えっと…そうだ、一度雨が上がって」


それで、それから、 忘れてた。


シモンは自分の言葉が理解できているのだろうか。
ロシウがそう感じるほどに、彼の答えは零れ落ちるようなそれだった。
誰と、どこで、何をしたら、この雨の中、傘を忘れるほど思考が止まるのか。

よほど有頂天になるようなことがあったのか、よほどショッキングなことがあったのか。
シモンの様子からみてどうも後者のように思われるのだけれど。

風呂でも入ってさっさと寝ろ、と部屋に押し込むべきだろう。
隣人としてしてやれることはそれくらいで、それが一番自分らしい対応のように思えた。
行動に移すべく、手首を掴んでいた左手をゆるめる。


「とにかく、早く部屋に…」

戻って、と言いかけて、不意にシモンの右手がきゅうとロシウの左手を握り返した。
視線を落としたままで、それはほとんど無意識の行動だったのかもしれない。

「………っ…」

ロシウは喉をつまらせた。





貴方が悪い。
貴方が隙を見せるから、貴方が、思わせぶりなことを。

するから。

貴方が悪い。




「…シモン、さん」


ロシウは繋いだシモンの手を引いた。
声色を変えたロシウに視線を上げると、近づいた顔を認識するより先に視界がぼやけた。
驚いたシモンが僅かに漏らした吐息を掬い上げるように、声ごと言葉を奪われる。
ん、と鼻がかった音が触れ合わせた唇に響いた。振動を共有する。


「ふ…っ、……」


力なく肩を押されたが、ロシウはそれを無視して片腕をシモンの腰とドアの間に滑り込ませた。
抱きかかえるようにきつく身を寄せて、つないでいた手の指を編むように絡ませる。
雨に濡れた背を堅い扉に押しつけて。
冷えた身体に熱を分け与えるように抱きしめた。


「んっ、…ぅ……っ…」


心臓が爆発しそうだ。
呼吸がうまくできず、はぁ、と深く息を吐く。
唇を触れ合わせるだけなのに、眩暈を覚えるほど緊張する。

「…、シウ…」


不意に、掠れた声で名を呼ばれた。
青白かった顔が少し色を取り戻し、視線を絡ませた瞳は揺らいでいた。
浅い呼吸のまま、再び顔を傾ける。淡く開いた唇を眼に焼き付け、柔く食む。


「ん…ぁっ…」


あえかに声を上げるシモンに、ロシウはたまらず舌を滑り込ませた。
いつの間にか背に置かれていた華奢な両手が、すがるようにロシウのシャツを握る。

唇が触れて、離れる。繰り返して、こぼれる唾液を舌ですくう。
静まり返った深夜の、安アパートの通路で吸いつくような高い水音が鳴る。
サアサアと雫の小さい雨音がそれを濁していた。

唇だけ、痛いほど熱くなっているのに。
シモンの身体は芯から冷え切っていて、ロシウは没頭しそうになる口付けに区切りをつけた。
上がる息のままに肩を揺らし、ぼんやりと見上げてくるシモンをじっと見返した。


「は…ァ……、ろ…しう…?」


せめて視線をそらしてくれたら、せめて戸惑う素振りを見せてくれたら。
少しでも否定するような言葉をくれれば、まだ良かったのにと歯噛みする。

自分を止める理由が見つからない。
だから、歯止めがきかない。加減がわからない。

(貴方のどこまで、踏みこんでいいのか…)

シモンを抱きかかえるようにして、ロシウは隣人の部屋へ足を踏み入れた。



もう、何も考えられなかった。
彼が享受すると言うなら、この夜だけは捧げるように慰めてあげたいと

思ってしまった。





























ロシモはなんか手ぇ繋いだだけでフェロモン出るっていうか、
若いのにすごくアダルティーなエロ気を持っていると思うのですよ。
そういうのいいよね!←

そしてやっちゃうフラグ。


09.09.20