【汝、隣人を愛せよ】
天気予報はあくまで予報であって、外れることもしばしば。
今日は雨が降らないと胸を張っていた天気予報士を思い出し、キノンは恨めしく空を見上げていた。
昇降口で上履きからローファーに履き替えたところで異変に気付く。
湿った匂いがして、案の定、音もなく細かい雨が降っていた。
「傘…」
途方にくれていたキノンに声をかけたのはロシウだった。
雨空を見上げて立ち尽くす彼女を見かけ、大方傘を忘れでもしたのだろうと察しがつく。
たまたま折りたたみ傘をロッカーに置いていたロシウは、迷わずそれを彼女に差し出した。
「え…?」
「よければ、使って」
「でもロシウは…?」
「僕は、結構近いんだ。走れば大して濡れないさ」
片眉を上げて笑って見せるロシウに、キノンはおずおずと傘を受け取った。
手元とロシウを交互に見て、彼女は意を決した。言葉にする瞬間、目が泳いでしまったけれど。
「一緒に、……」
「え?」
「一緒に、入ったら…ダメ…かな」
傘、と。キノンは尻すぼみに言う。
きょとりとしたロシウは「折りたたみ傘は小さい」とか「二人で入っても濡れる」とか、
そんな無粋な返事を並べたが、異常に熱のこもった視線をむけられればそれ以上断る理由はなかった。
頷いて、傘をさしたところで、俗に言う相合傘になるのではと気付いてひどく狼狽した。ロシウの恋愛経験値はゼロに近い。
それが、10分ほど前のことで、間断ない雨の中を歩いていては足元が湿るのはやむを得なかった。
模試の話やクラスメイトの話をしながら、ロシウは歩幅の小さい彼女に合わせてゆったりと歩いた。
雨の音がほどよく耳をくすぐる。
女の子と同じ傘に入るなどロシウには初めてで、相手が良き友人だと分かっていながら照れくさかった。
足をとめたのは、商店街の花屋を通りかかったときだ。
「はい。それで見繕ってください、お任せします」
「かしこまりました。少々お待ち下さい」
ロシウにつられる形で、キノンも足を止めた。
花屋の店先で藍色の傘をさした客が、店員に何やら注文していたのだが、ロシウはその声に聞き覚えがあったのだ。
店員が店の奥に戻ると、客は軒下に入り傘を閉じた。
「シモンさん?」
キノンがロシウを見上げ、その視線を追う。
彼が『シモンさん』と呼んだのは、花屋の入り口に立つ男性客のことらしかった。
呼ばれると、差していた傘を閉じた客がきょとりとロシウを見返した。
夕闇色の髪の、細身な男性。
グレーのスーツを着ていたので、社会人だろうかとキノンがぼんやり見つめていた。
すると、シモンもロシウからキノンへ視線を移す。目が合うと、にこりと微笑まれ、キノンは慌てて小さくお辞儀をした。
シモンも会釈を返し、きょろりとからかうような目線を隣の男子高生に送る。
「隅におけないな。こんな可愛い彼女がいたのか」
ロシウ、と。
シモンが己の懐を探りながら軽口を叩いた。取り出したのは財布だった。
『彼女』と聞いてロシウもキノンも染めたように赤面し、ますますシモンは面白そうに肩を揺らした。
うつむいてしまうキノンに気を遣ったのか定かではないが、ロシウは慌てて首を振る。
「っ…、違います!友人です。クラスメイトの、キノンです」
断固として言い張るロシウにシモンは大きく瞬きし、視界の端でキノンが僅かに肩を落としたのを捉えた。
なるほど、と顎を撫で、「それは失礼」と肩を竦める。ロシウは利口だが、どうも鈍感なところがあるようだ。
ほんの冗談だと言外に伝え、財布から100円札を取り出した。
「キノン…でいいかな?初めまして、俺はシモン。よろしくな」
「…シモンさんは僕と同じアパートに住んでるんです」
「隣でな。よく面倒見てるんだ」
「…面倒かけてる、の間違いでしょう」
朗らかに微笑むシモンに、眉を寄せるロシウ。
キノンはドギマギしながら「初めまして、シモンさん」と答え、二人を交互に見た。
街中で声をかけたり、呆れた顔を見せたり。
ほんの数分間の、ロシウの些細な表情や言動にキノンはわずかな違和感を感じていた。
頭がよく、皆に頼られ、冷静で、なんでもそつなくこなす人。
授業中は真剣な顔で、友人と話すときは笑顔で、そういえばそれ以外の表情をあまり見たことがなかった。
キノンはロシウと親しいと思っていたし、事実、長い時間を共有している。
委員長の彼を副委員長として補佐し、二人で放課後残ることもたびたびあった。
彼はいつも笑顔で、優しかった。ケンカなんてしたこともない。
真面目で、誠実で、優しいロシウ。
要するにキノンは、恋をしていた。
照れたり、からかわれて慌てたり、呆れた顔をしたり。
(そういう顔もするんだ…)
当たり前のことを改めて知る。彼の新しい側面に触れて嬉しくなった。と、同時に。
キノンはロシウの隣人に視線を向ける。
肩をすくめて冗談交じりに彼が何か言うと、ロシウは眉をひそめ、けれどすぐに笑った。
困ったような笑みは、学校で見る鮮やかなそれとは何か違う気がした。
店の奥から店員が戻ってくると、シモンは1000円札を差し出して花束を受け取った。
赤を基調にした小ぶりな花々は、白の包み紙によく映えていた。黄色のリボンで結わえてある。
伏し目がちに花束を眺めるシモンの睫毛をぼんやりと眺め、ロシウが尋ねた。
「…何かあるんですか?」
「ん?」
「珍しい格好してるなと思って。ジーンズ以外も持ってたんですね」
「失礼だな。俺だって時と場合に合わせるさ」
じゃあ今日は、どんな『時と場合』なんですか。
そう聞こうとして、ロシウは言葉に出来なかった。どうしてそう思ったのか、聞いてはいけない気がした。
聞きたくなかったのかもしれない。
シモンは店員から釣銭を受け取り、財布を仕舞いこむ。
雨に濡れて色が濃くなっているロシウの肩を見て、彼の傘がややキノンの方に傾いていることに気付き、ゆるく目を細めた。
ふと、何か言いたげなロシウと目が合う。
けれど彼は見返すだけで何も言ってこないので、シモンは再び花束を眺め、肩をすくめた。
「人に、会いにな。1年ぶりだから畏まろうと思って」
「…………」
「今日は降らないって言ってたのになあ」
雲に覆われた白い空を見上げ、知らず溜息が零れる。
諦めたように手元を見下ろし、藍色の傘を開いた。ポツポツと雫がビニールに当たって音を奏でる。
一歩踏み出すと革靴の周囲で小さく水滴が跳ねた。ズボンの裾はもう濡れていた。
シモンは傘をかつぐように差し、ロシウとキノンを振り返る。
「まあ。降って、いいこともあるみたいだけどな」
シモンはキノンを見やり、微笑んだ。途端、彼女は頬を染める。
そんじゃあな、とシモンは軽く手を振って二人から離れて行く。
ロシウはシモンの言わんとすることが分からず、眉をひそめていた。
遠ざかるシモンの背を見つめ、手にしていた鞄を強く握る。
「…ロシウ?」
キノンに呼ばれ、ロシウは「ああ、」と喉を震わせた。
根が生えたのでは思うほど重たく感じる足を持ち上げ、ようやっと再び帰路につく。
キノンはどうしたのかと尋ねようとして、やめた。明確な答えは得られないような気がした。
あのとき、花束の淵に添えられたカードが、ほんの一瞬だけロシウの目に映った。
『 Dear 神野 』
下の名前は、見えなかった。
貴方は、誰に会いに行ったのですか。
その花束は誰の手に行くのですか。
粒の小さい雨が、その日はずっと降り続けていた。
続
初めてロシモ以外を出したという。
キノン好きですよ!可哀相な役回りでごめんね…!
09.08.19