【汝、隣人を愛せよ】
煩わしいと思うものでも、それが止むと寂しさを覚える。
毎日のように僕の生活を騒がせていたシモンさんが、ここ一週間姿を見せない。
一日目は気にならなかった。
二日目はきっと忙しい時期なんだろうと思った。
三日目は少し落ち着かなかった。隣には人の気配があるのに、彼は来ない。
それから毎日、違和感が大きくなっていった。
僕の毎日は、こんなに変わり映えなく静かで、退屈だったろうか。
(…って、何を考えてるんだ。勉強しやすくていいじゃないか)
額を押さえて溜息をついた。
聞きなれた鐘の音が鳴って、今日の授業が終了した。
全く集中できない自分に苛立つ。何だこれは。
原因は、わかっているのだが。
簡素な部屋だった。
そういえば付き合いも2年目で、こんなに近所なのに部屋に足を踏み入れたのは初めてだった。
いつもシモンさんが僕の部屋に押しかけていたから。
必要最低限の家具。
部屋の隅に積み上げられた書籍が目立つくらいで、本当に何もない部屋。
小さなテーブルの上にはシルバーの灰皿。その中の煙草とライターが目に留まった。
それから、木製の枠のシンプルな写真立て。写真には僕の知らない人が映っていた。
いや、一人は知らないが、もう一人は…。
六畳一間のアパートにもちろん寝室などなく、僕は部屋の中央に敷かれた布団の傍らで正座していた。
羽毛布団から顔だけ出している彼を見下ろし、もう一度脇の写真立てを見る。
ハデなサングラスをかけた青年に抱き上げられて笑っている少年は、もしかしなくともシモンさんだろうか。
どことなく面影が残る。
「風邪うつるぞ。受験生。もう帰れよ」
「一週間も寝込んでいたんですか?」
「……もうほとんど治ってる。明日は大学も行くつもりだし」
「この熱でよく言う…」
顔を火照らせるシモンさんの前髪をかきあげながら額に手をおく。
彼は大人しくしていた。体温の低い手が気持ちいいのか、目を閉じたまま深く息を吐いていた。
「汗、かいてるからあんまり触るなって」
そういえば風呂はいつ以来入っていないんだろう。
この人の性格からすると面倒くさがって1週間まるまる入ってなさそうだ。
というか、食べてもいないんじゃないだろうか。もともと細いのに、さらにやつれて見える。
「体拭くぐらいはしましたか?」
「一昨日風呂入ったよ…」
「熱があるのに?」
「入ったらすぐ寝たって」
「ご飯ちゃんと食べてますか?」
「………」
「食べないと治るものも治りませんよ」
「昨日カップ麺たべた」
「カップ麺…」
覗いた冷蔵庫は空だった。
買いに行く体力がなかったという。しかももう昼過ぎなのに、今日は何も食べてないと。
僕はふつふつと怒りがわきあがり、しかしここで説教するのも何か違う気がして大袈裟に溜息をついた。
憤りも一緒に体外に放り出す。
鞄の中をあさり、ノートをメモ用紙大に切り取ってカチカチとシャープペンシルを鳴らした。
さらさらと数字を書き記したそれをテーブルの上におき、ライターを文鎮代わりに置かせてもらった。
向き直ると布団から顔を出したシモンさんが不思議そうにこちらを見ていた。
「シモンさんが毎日のように押しかけてくるんで、今まで必要性を感じなかったんですが」
「何?」
「携帯の番号です。置いておきますから、こういうときは連絡してください」
「・・・・・・・・・・・・・・・へ?」
「買出しくらいは、行きます」
「…だって、だってお前、高校とか、忙しいんじゃ…」
「貴方がそれを言うんですか?」
毎日のように押しかけては勉強の邪魔をする、貴方が?
言外にそう伝えて目を眇めると、シモンさんは「それもそうだな」と苦笑した。
そこは反省してほしいのだけれど。
「食べたいものとかありますか」
「…なんか、冷たいやつ。プリンとか」
「食欲ありませんか?出来れば栄養のあるものの方が…」
あんまりない、とシモンさんはそこで初めて少しだけ弱った顔を見せた。
『おかゆか何か、食べやすいものを…』と考えていた僕の思考がピタリと止まる。
上気した頬に手を伸ばしても、先ほど額に触れたときと同じようにシモンさんはそれを大人しく受け入れた。
人差し指が熱い耳に触れて、彼の唇からふうと息が漏れた。
何も、考えていなかった。考えられなかった。
衝動のままに、熱を測るようにごく自然に。
キスを、した。
「…ん………」
触れただけでも、熱かった。
柔らかい感触に心地よさを覚え、同時にひどく身の内が渇いた。
出来れば、もっと…。
「…うつるぞ」
2ミリ離れた場所で存外にハッキリした声が言う。
そうしてようやく、僕は我に返った。
「……、ッ…!」
がばりと身を起こし、シモンさんの頬においていた手も反射的に引いた。
本当に熱がうつったかのように顔が火照る。
けれど引きかけた手をパシリと掴まれた。
緩慢な動きしか見せなかったシモンさんにしっかりと腕を掴まれて、僕はますます困惑した。
腕に絡む五本の指と手のひらが、熱い。
掴まれた場所からドクドクと己の脈を感じて、そこに心臓があるのではと、そんな下らない考えが浮かぶほど。
「…は、…放してください…」
「……」
「………プリン、買ってきますから…」
表情の読めないシモンさんから目を離せずにいると、彼は不意に視線を外して微笑んだ。
あっさりと手を離して、もそもそと布団にもぐりこみなおす。
「おう、じゃあ頼んだ。あとアイスも食べたい」
「………お…」
お腹が冷えるからダメです…、と告げた声がずいぶん情けない響きになってしまう。
シモンさんは布団の中でくすくすと笑い、「じゃあお前にまかせる」とくぐもった声で答えた。
フラフラと玄関まで向かい、扉を閉めて一番近場のコンビニへ向かう。
(……僕は、一体、何をした?)
続
衝動が自覚に勝る恋。
そういうのっていいよね。
09.04.24