【汝、隣人を愛せよ】









見慣れた天井ではあるが、何か少し違和感を覚えて目をこすった。
そこでようやく、自分が夢見に泣いていたのだと気付いた。
話し声さえ聞こえてしまうような壁の薄いボロアパートに引っ越して、早3年目になる。




寝返りを打つ気力もなかった。
ぼんやりとした思考で黄ばんだ天井を見上げた。夢に見たのは、2年前の他愛もない一日の片鱗。
すっかり忘れていた、しかし夢に見ればそんなこともあったなと懐かしく思う記憶。



隣の変人が、おそらく友人へと変わったあの日。
彼の中では、会ったその日からとっくに友情はあったらしいけれど。
アパートに越してきて半年とちょっとくらいだったか。
僕が高一の冬だった。

シモンさんは大学一年。彼は大学に入る前からこのアパートにいたらしい。
ご近所付き合いとゴミ出しの極意、近所で一番安くて安心なスーパーまで教えてくれた。
頼んでもいないのに。最初からお節介な人だった。
僕はそれを煩わしく思って、適当にあしらっていたのだけれどシモンさんは気に留めることもなく何かと理由をつけて構いたがった。
高校生をからかうのが楽しかったのかもしれない。


「…ロシウ?」
あの日は雪が降っていた。アパートのドアの前でただ待ちぼうけしていた。
自宅の前で待ちぼうけというのも間の抜けた話だと思う。それでも僕は制服の上にコートを羽織り、カバンを抱えたまま待ち続けた。
隣人が帰ってくるのを。彼が帰ってきたのは、何時間待った頃だろうか。

「何してんの?家の前で」
鼻、真っ赤だぞ。とケロっとした顔で言われた。
まあ、確かにシモンさんを待ってたなんて思いもしないだろう。自宅の前でわざわざ。
それまで自分からシモンさんに関わろうとしたことのなかった僕が。
我ながら非合理的な行動をしたと思う。これといって理由もない。

「駅前のたい焼き屋に、たまたま寄ったんです」
手がかじかむ。カバンと一緒にかかえていた紙袋をひょいと掲げて見せた。
中には2尾のたい焼きが入っている。最初はホッカイロよろしく温かかったのだが、もう冷えてしまっていた。
建前の理由なら、きちんと用意してきたのだ。でないと体裁が悪い。
「シモンさん、コレ好きだって言ってましたよね。確か」

育ての親の家に居心地の悪さを感じて飛び出したものの、それ以外に居場所なんて持ち得なかった。
一人暮らしを始めて、少し気楽になったのと同時にそれを自覚して、少しずつ無所属感に侵されていたのかもしれない。
腹の底に息を潜めていた虚しさが、出口を探すように噴出して。

要するに、寂しかったのだ。半年は耐えた。
新しい環境に順応するのに疲れて、心が軋み始めていた。
疲れているのに、疲れる人のところにわざわざ来るというのも妙だと思いながら。けれど。

「奇遇だなあ」
マフラーを口元まで指で引き上げながら、シモンさんはやけに嬉しそうに笑っていた。
ガサリと音がして、彼の右手が抱え上げたのは僕が持っていたものと同じ紙袋だった。駅前のたい焼き屋の…。本当に好きなんだな、と思った。
冷め切ってしまった僕のたい焼きは、お呼びでなかったかもしれない。
用意した理由はあっけなく意味をなくした。たい焼きの偶然に笑うシモンさんと、少し落ち込んだ僕。
ゆっくりと歩み寄ってきたシモンさんは、ぽん、と僕の肩に手をおいた。

「2尾買ってきた。ロシウにもあげようと思ってな」
「…僕も、2尾…」
「へぇ。中身何?俺新種のサツマイモあんっていうの買ってきたんだけど」
「…つぶあんです」
「じゃあちょうどいいな。一個ずつ食べれる」

な、とシモンさんは覗き込むように首をかしげた。
僕はすぐに言葉が出てこなくて、3秒あとに「そうですね」と気の利かない返事をようやく口にした。
「ロシウんちでお茶にしよう。緑茶あるか?」
「え?あ、はい、ありますけど…」
「よかった。買ってくんの忘れてさ。俺んちコーヒーしかないんだよ」
たい焼きにはやっぱ緑茶だろーと間延びした声が聞こえた。
いつの間にか僕の家でお茶にすることになっていた。シモンさんが家に来るのは、初めてだった。
…まるで、友達みたいだ。


最近妙に重く、気だるかった身体が急に軽くなる。
錆びた車輪にオイルを注したように、軽やかに回りだす。何だろう、これは。

「ほら、さみぃから早く入ろうぜ」
「あ、はい。今開けます」
雪が静かに落ちていく。あまりの静けさに、自分が動く物音がやけに大きく聞こえた。
カバンの小さなポケットからカギを取り出してカチャカチャと金属音をならす。手がかじかんでカギがうまく鍵穴に入らない。
急く心が余計にそれを邪魔した。何を焦ってるんだろうと、やけに顔は火照るのに手の感覚は一向に戻ってこなかった。
胸のうちで舌打ちしたとき、すっと横から別の手が伸びてきた。
シモンさんがやんわりとカギを手に取り、チャリ、と鍵穴にそれを押し込めた。手首を回して、カチャン、と開錠された音が鳴る。
用が済めばそのカギを引き抜いて、ぽん、と硬直していた僕の右手に押し戻した。先にドアノブに手をかけたのも彼だった。
僕は瞬きも忘れてシモンさんの耳の後ろあたりを見ていた。

「家の中で待ってりゃいいのに。そーんなに俺に会いたかったか?」
不意に振り向かれて、思わず肩が跳ねた。
「な…っ」
「お茶わかして。早くあったまろ。あとお前のたい焼きはレンジが必要だな」
「あの、シモンさん…」
どうして待っていたのか、どうしてたい焼きを買ってきたのか。尋ねて欲しくはなかったけれど、何も聞かれないのもそれはそれで居心地悪い。
自分がどうしたいのかも分からなくなってきた。
少し焦った声で呼びかければ、彼はいそいそと靴を脱ぎながら足元を見たまま告げた。
「いいんじゃないか?たまにはゆっくり休んでもさ。お前、ちょっと頑張りすぎ」

語尾と一緒に伸びてきた手は、こちらを見ていないのに的確にペチ、と額を軽く叩いた。
「ハゲるぞ」と笑われた。いつもだったら憤慨するところなのに。先回りされた言葉に、何もいえなかった。
目元が熱くなって、まずい、と意味もなく鼻をすすった。





気恥ずかしい記憶だ。
目が覚めてきた。枕元の携帯を開いた。『AM8:57』


頭が痛い。だるい。
俗に言う風邪をひいたらしい。熱がありそうだ。潔く休んで、早く治したほうが利口だろう。
今日は学校は休もう。どちらにせよ遅刻はまぬがれない時刻だ。
「…はぁ……」




『はっし〜り出した〜思いが今でもォ〜♪こーのむ………






アーーーーッ!

ガタンガタン、ガタガタッ、ビターンっ








「!?」
女声の歌が突如流れ出したかと思いきや、叫び声と共にものすごい物音がひっきりなしに聞こえた。
…隣の部屋から。
「………何を、してるんだ…あの人…」
ガタガタと色んな物音が鳴る中、ぶつぶつと何かくぐもった声が壁越しに聞こえてくる。
しばらく何かつぶやいていたかと思うと、不規則に「アーッ!」という叫び声が入る。

さしずめ、最初に流れた音楽はケータイの目覚まし。
時刻は9時。設定を間違えたのだろうか。シモンさんの大学の1コマ目は9時かららしい。
要するに寝坊したのだろう。
普段僕が家を出る時間帯は、シモンさんは夢の中ということか。羨ましい。
いつもこの時間にこうやってバタバタガタガタしているのだろうか。つくづく近所迷惑な人だ。


『…ばい…やばい…アーッ!………』


いつものんびりした声で話すシモンさんが、我を忘れて隣の部屋で暴れまわっている。
失礼だと思いながらも、僕は思わず笑ってしまった。ケホ、と紛らわすために咳を零した。


本当に、変な人だ。


































デコスケの恋心フラグ。
まだ自覚ナシ。ぬるい、ぬるいぞおっ
どうもギャグりたくなりますこの二人。






09.03.12