【汝、隣人を愛せよ】










変な人だとは思い始めていた。

だからなるべく関わらないようにしようと思った。
無関心が常識となりつつあるこのご時勢だ。難しいことではないと思った。


『あんっ、あああっ…いやぁ、そこだめぇえええッ…!』
「………」
『あ”はぁっ、死んじゃうううっ・・・やっ、あああンッ!!』
「……ッ!!」

(―――集中できるわけがないっ!)

こちとら受験生だというのに、薄い壁の向こうから聞こえる下品な声がうっとおしくて勉強に集中できない。
隣人だって僕が大学受験をひかえた男子高生だと知っているはずだ。
この安アパートの壁が薄いことも身をもって実感しているはずだ。その状況下で普通、AVなんか見るか?
物音の少なさからAVだと勝手に判断したが、万が一にも恋人などであれば趣味が悪いと言ってやろう。
さっきから耳につく喘ぎ声はまるで獣のようにけたたましい。もっと控えめな女性にしろ、と。
…そこまで口を出す義理もないが。

『あうっ、もっと、精液ッ…中にいっぱい出してえぇッ…!』

「……チッ」
勉強机を睨みつけて、思わず舌打ちした。
もう限界だ。せめてボリューム下げるなりイヤホンつけるなり、そういう配慮はないのかあの人は。
大体、いつも飄々としてるくせに、どんな顔してこれを見て……。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
そこまで考えてハタと思考が停止した。
今、何を考えた。


一人暮らしの男がAVを見ているということは、つまり、そういう処理をしているわけで。生理現象のひとつだ。
自分は断じてそういったものを見ないが。そういえばそういう話を振られたことがある。某隣人に。

『はぁ?じゃあお前どーやって抜いてんだよ』
『たまに、朝トイレで…って下品なこと聞かないでくださいよ!』
『たまに!?朝!?トイレで!?ハァ!?』
『きれいに言い直さないでください!というか、大学はあっちでしょう!ついて来ないでくださいよ』
『お前それ我慢の果てにその処理?男子高生が?身体に悪いぞ。それともインp…』
『黙ってください!』

嗚呼、思い出したら眩暈がしてきた。机に肘をついてこめかみをきつく押さえる。
育ちの良さそうな顔をしてるくせに、口を開けば下世話なことばかりぺらぺらと。
人好きのしそうな外見に騙された。第一印象が勝手ながら素敵だったせいか、口を開くごとに変人が露見してくるのが、もう…。
関わらない方がいいと理解し始めた頃には時既に遅く、一般的には『友人』とよべるほどには付き合いが出来ていた。

とりあえず、このままでは勉強がまったく手に付かないので不満の意を込めて壁を蹴ってみた。
ドスっ!


『あん、あん、いくう…あああっ…!――――ブチっ』
消えた。

ガンッ!
向こう側から反撃。壁が震えた。
僕は思い切り眉をひそめたが、ただの八つ当たりだろうと判断し、放り出していたシャープペンを握りなおした。
さ、受験生は勉強だ。
と、そのとき。


ピンポンピンポンピンポーン!
「・・・・・・・・・・」
ピピピピピピピピンポンピンポーーンピピピンポーン!!
「・・・・・・・・・・」
ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポーーーン!

けたたましいチャイム音。
僕は無言のまま立ち上がり、ドタドタと玄関まで大股に歩いていくと勢いよくドアを開け放った。
その先に誰がいるかなんて、分かりきっている。

バターン!
「うるさいですよ!何ですか!!!」
「どーしてくれんだよお前!」

やっぱり。隣の部屋に一人暮らしをしている、近所の大学に通っている青年。シモンさんだ。
大学三年生で、21歳だと言っていたがおよそ成人とは思えない振る舞いばかり。
僕よりよっぽど子供っぽいと思う。童顔だし、背も低いし。口論の末に一度それを言ったら「歯ァ食いしばれぇ!」と言いながら横面を握りこぶしで思い切り殴られた。
食いしばる暇もくれなかった。
散々怒鳴ったあと、急に海より深く落ち込んでさめざめと泣かれたときには本当に滅入った。
口論していたのにいつの間にか僕がシモンさんのいいところを必死に探して列挙していく羽目になっていた。今思うとあれは何だったんだ。

とにかく、そのくらいよく分からない人だ。
今だって何故僕が怒られているのか…。「どーしてくれんだ」はこっちのセリフだ。
受験生の仕事は勉強なのに。
「いったい何…」
言いかけて、すごい剣幕で飛び込んできたシモンさんに目が釘付けになった。
正確にはシモンさんの胸元というか、なんといか、ずいぶん乱れた服装。細身のジーンズに、そこから半分ほどはみ出した裾。薄いグレーのシャツのボタンは3つほど外されている。紺色のパーカーを羽織っているが、右手だけ袖がまくられている。おまけに少し上気した顔。
もう少しなんとかならなかったのかと思う。それじゃあ、さっきまで何してたのか丸分かりだ。
ビタン、と自分の顔を手のひらでおさえて大きく溜息をついた。

「何じゃねーよ、もう少しでイけそうだったのに、お前がいきなり壁殴るからビックリしただろ!」
「……」
「おかげでなんか不完全燃焼だよ!イライラ!」
「……僕だって、勉強したいのに貴方が下品なもの見てるから集中できないんですよ!イヤホンないんですか、イヤホン!!」
「ぶはは!なんだよ勃っちゃって勉強が手に付かなかったのか?見たいなら言えばいいのに」
「違いますよ!音がうるさいって言ってるんです!」
「ハァ。でも俺イヤホンとか持ってねーもん」
「買えばいいじゃないですか」
「だっていらねーもん」
「使ってくださいって言ってるんです!僕が迷惑だ!」
「俺はべつにいいもーん。あそだロシウくん、これを機に男子高生として健全な性生活をスタートしちゃえば?ずいぶん遅いスタートだけど」
名案を思いついたかのようにポンと手をつき、人差し指をたててコロリと首をかしげてみせるシモンさん。
言葉が出なかった。なんなんだ、どうやったらそういう思考にいきつくんだ。

「…………もういいです」
ハァ、と息をついて大袈裟に肩を落とす。ドアノブにかけていたままだった右手を引こうとして、シモンさんに中に入るように促す。
手を離すと彼が扉に挟まってしまう。別にそれでも構わないが。
きょとりとしたまま素直に数歩踏み出した隣人を確認してから扉を閉め、空いた両手を自然な動きで彼のシャツに伸ばした。
だらしなくくつろげられた胸元のボタンをふたつほど閉め、右だけまくられた袖を丁寧におろす。
不思議そうにしながらも大人しくしている様子に、俯き加減の彼をなんともなしに盗み見た。
目元がまだ少し、赤い。

妙な緊張を覚えたが、多分それは珍しくシモンさんが黙っているせいだということにしておく。
いつもは人の話も聞かずに無駄口ばかりたたくくせに。
シャツのすそをズボンに入れ直してやるというのはさすがに憚られたので、パーカーを緩く引き下げて完了の合図よろしくパシパシと整える。
これで少しはマシか、と。

「……」
「不気味なほど静かですね。怒ってるんですか?言っておきますけど、僕は謝りま…」
「お母さんみたいだな」
「………はい?」
「弟か、妹かいるのか?面倒見いいってよく言われるだろ」
「…以前、親戚の子の面倒はよく見てましたが…」
「そっかぁ。なんかほら、一人暮らししてるとこういうの無いからさ、お世話されるとなんか嬉しハズカシって感じ?」
「……大の大人が何を言ってるんですか」
「大人だからだろ。懐かしむっていうかさぁ」
「甘えたいんですか?」
「そうじゃないけど。うるさいなー、褒めてやったんだから素直に喜んどけよ」

シモンさんは照れくさそうに、ポケットにつっこんだ両手で無駄にパーカーを引きのばしていた。
あーあー伸びますよ、と止めようとしたところで、また「お母さんみたい」と言われるのではと思い、口にするのをやめた。
というか、褒められていたのか…。

幼い頃に亡くした母親の記憶なんてほとんどない。
「お母さんみたい」と言われてもどこらへんがそうなのか、僕にはよくわからなかった。
そんなものなのか、と曖昧に理解した。
育ちの良さそうな顔をしている。いつも楽しそうにしている。何考えてるのか理解に苦しむが、きっとこの人は両親に愛されて育ったのだろうと思った。
少し、羨ましかった。

「実家とかに、帰ったりはしないんですか?」
そういえば正月もお盆も隣の部屋には人の気配があった。自分もそうだが、シモンさんも家を長く空けていた様子はなかった。
母恋しそうに「お母さんみたい」と言うのだから、もしかしたらしょっちゅう帰っているのかもしれない。日帰りや一泊二日程度で帰省しているのかも。
彼の実家がどこなのか、僕は知らないけれど。
「………ああ。帰らないよ」
シモンさんはそれだけ言って、不自然なほど穏やかに笑った。







後日。


ピンポーン
ピンポンピンポンピンポーーーン!
ピピピピピンポンピンポンピンポンピンポーーーーン!!!

ガチャ
「ロシウ、お前どうしてくれ「ドウゾ。」
今日も今日とてひどい格好で乗り込んできたシモンさんに、有無を言わさず手乗りサイズの四角いパッケージを押し付けた。
「あ?何だコレ…?」
「それ、あげますんで。お願いですから使ってください」


近所の電化製品店でワゴンに積み上げられていた一番安いもの。
イヤホンを買い与えるのが最も手っ取り早い解決法だと思ったのだ。
(高校生に買い与えられる大学生ってどうなんだ…くそ…)
勉強の効率を上げる手段だと思って耐えるしかなかった。



それから、安物が壊れるたびに「イヤホン壊れた」とだけ報告されるようになった。
音を出してほしくなければ買ってこいという脅しだ。有り得ない。
別に自分は構わないんだけどな、という顔をしているのがまた小憎たらしい。
本当に、どういう神経をしているんだ。


そして今日も僕は
「あの、一番安いイヤホンって…」
「ああ、セール品は売れてしまったんですよ。こちらの商品が今一番安価となっております」
「・・・・・・・・・・・・・・・・どうも」
いつもより少しだけ高いイヤホンを買って帰った。


「なんかこれいつものより機能よくね?」
コードが出し入れできんぞなんだコレ!と大はしゃぎするシモンさんを見て、いつかまとめて請求してやるからなと実現しそうもない野望を抱くのだった。




























現代パロ楽しい。
学生ロシモとかハァハァするんですが、まったく色気のない話ですいません。
シモンさんちょうフリーダム。



09.03.12